『 ある臨床外科医の背景/信念と自戒の言葉 』と小括したものの 後半の人生にも思わぬ変遷がもたらされた

これは5年程前に大宮医師会誌に投稿した原稿です。
この頃には生涯勤務医で終わるつもりであったのだが、将来のことは誰にも解らないものと今では実感している。

子供の頃、周囲に銀行マンや教育者の縁はあったが医療従事者は居なかった。
ただ風邪を引いて寝込んだ時に往診してもらってお尻に痛い(ペニシリン? 怖かった!)注射を打たれたり、自転車で派手に転んで膝を擦り剥いた時に処置(赤チン&ガーゼ;ソフラチュールは未だ無かった)のため通院したこともある、田舎の小さな町で一番評判の良かった開業医の先生には、その子息が同年代であったこともあり随分と可愛がってもらった。
ある時など下校時に、オートバイで往診に出かける先生を見つけてそのオートバイの後ろに乗っけてもらい、遊び仲間に胸を張ったこともあった。

将来医師に成ることも一つの道だと初めて意識したのは中学3年生の夏休みの時だ。
小さい頃から遊びと云えば野球で、中学生では当然の野球部でずっとサウスポーピッチャーだった。
理論的で的確な指導者などいない時代だ。
力任せにストレートを投げ、無手勝流のカーブ・シュートを投げていた。
そして必然的に肘を壊し、何と夏の県大会終了後には手術を受けざるを得ない破目に陥った。
この経験直後には『将来医師となって、全国の故障した野球少年を救いたい』と決心した(?ような)一瞬があったと記憶している。
ところが高校入学後は『仕事の結果が形として残ることにこそ魅力・意義がある』という気になり、建築家になることを夢見た。
だが小学校の頃より「図画」が極めて不得意で、高校2年生の美術の課題として石膏のビーナス像のデッサンを描いたのだが、誰からも『全く以て下手』との評価を受けたことをきっかけに、己の美的センスの欠落に気付いてしまった。
これでは建築家としての資質に欠けると自己判断し夢を諦めた(その後少し早まったかもしれないと後悔の念も沸いたが…)時に、医師への道も考えたことがあったことを思い出した。

自治医科大学に進学し、それも2期生というどうしても肩に力が入ってしまう創立期メンバーの位置にいた。
医師を目指す過程で考えていた事にはいつも、『果たしてまともな医者になれるだろうか』『何を専攻することになるのかしらん』そして『将来開業するか或は勤務医で通すか』があった。
大学先輩の医師がまだ誕生していない中、将来の医師像はなかなかうまく描くことができなかったのだ。
しかし全国の地域(その当時は僻地)医療を担うことが大学設立の趣旨であるからには、今でいう総合医が求められるのだろうと推測はしていた。
マイナーな診療科ではなく、内科系か外科系かと肌に感じていた。
ならばと、ここでも中学生の手術体験に基づき早々と外科系に決めた。

結局整形外科ではなく外科を選択し外科系総合医を行くべき道と決めて地域医療に携わっていた。
僻地の診療所では、整形(内科?)外科・泌尿器科・皮膚科など外科系診療科以外にも小児科も担当(大丈夫だったかなぁ~)していたこともあった。
その頃に遭遇したある患者さんとの交流で強く意識した『心情』こそが自分の信念であると確認し、その後もそれをバックボーンとして堅持することとし今に至っている。
その時の出会いを『 忘れえぬ患者さん;病棟での盃 』と題して、ある雑誌に投稿した。

【 30年ほど前のことです。私は故郷徳島県南の海辺の町で30床程の町立国保病院に一人外科医長として勤めていました。
そこは四国八十八ケ所第23番霊場薬王寺もある風光明美な港町です。
患者さんは52歳の男性でした。
彼は太平洋から紀伊水道に流れ込む荒波に削られた千羽海崖(かいがい)や点在する小島などを巡る小さな遊覧観光船の船長を生業としていました。
仕事が終わった夕刻には、港近くの寿司屋で一杯飲むのを殊のほか楽しみにしていた陽に焼けた海の男でした。
その寿司屋で初めて出会い何度か同席し盃を交わしながらお互いの日常を語り合う内に、20ほどの歳の差は有りましたが友情というものを感じる一人となっていました。
ある時「この頃酒が旨くないなぁ~」とこぼしていたのを聞いて、「たまには検査をしたほうがいいんじゃないの?」と誘い、軽い気持ちで習い覚えた胃カメラ(当時はまだそのように呼称していた)検査をしたところ、胃体部から前庭部に広がる潰瘍性病変を確認しました。
進行胃癌でした。
直ぐに医局の先輩が外科部長をしている30km離れた総合病院に紹介し、手術時にはそのメンバーにも入れていただきました。
既に肝転移、腹膜播種を来していましたが、潰瘍面からの出血もあったため胃切除術は行いました。
術後3週間で港町の病院に帰ってきました。
気持ちは強く持っていましたが、徐々に腹水貯留が目立つようになり、黄疸も呈してきた頃です。
「飯は欲しくはないが、酒が飲めたら元気が出るんじゃがなぁ~」と言って家族を困惑させたのを聞いた私は、病院長に交渉して個室での飲酒に目をつぶっていただくことになりました。
しかし実際には飲むことなく、ただ飲んでもいいよと言われたことが嬉しく満足していたようです。
数日後病棟からすぐ来てほしいとの連絡があり駆けつけると、家族の見守る中、ベッドのテーブルには白い盃が二つありました。
弱々しく「寿司は無いけど以前のようにこの盃で先生と乾杯したい」と云う彼に「勿論受けて立ちますよ」と応えて、実はほんの少しの水が注がれた盃を持ち、お互いに顔を見ながらニッコリとして、乾杯のまねごとをしたのでした。
患者さんであり友人でもあった船長は翌々日の朝、亡くなりました。

病気の治癒が望めない患者さんを担当する医師は、その現状にどのように対応するのがいいのか?
患者さんの最期をみとることも多かった消化器外科医として、『この状況で、自分がしてあげられることは何か?』と考えて来ました。
『病気に勝てなかったことは残念だけど、それなりに納得できる人生だったなぁ~』と患者さんに思わせてあげたい。
『あなたが担当してくれたことに感謝しています』との言葉ほど医療人に勇気を与えてくれるものはありません。
船長との乾杯は忘れることのない深い想い、追憶となってその後の私の診療姿勢に影響を及ぼしてきたと思っています。 】

この後平成元年に故郷の徳島を離れて、大宮に新設された現『自治医科大学附属さいたま医療センター』の門を敲いた。
これは『人生一度は外科専門医としての自負を得ておきたい』という夢を捨てきれない
自分を認めての大きな決断だった。
ただし『3年間だけの国内留学のつもり』と、当時まだ元気だった両親と家内に宣言してやっと理解と了承・納得を得て実現にたどり着いたのだ。
卒後10年が過ぎていた。
始めは総合医学講座Ⅱ:外科(外科系総合医養成コース)の助手という身分であった。
初代教授は上部消化管を専門としていた宮田先生で学生時代からお世話になっていた。
その後周辺地域住民から高度専門医療の要望が高まりそれに応えるために、さいたま医療センター運営方針も徐々に変遷して専門診療科が確立されるようになった。
私の担当領域は、始めは徳島大学で学位取得に至った乳腺疾患を主としていたが、総合医学講座Ⅱ:外科の医局員は少なく、次第と症例数の多い上部・下部消化管を始めとして広範囲の疾患も担当するようになり、消化器一般外科系総合医と称していた。
また医局長として卒後レジデントとしてさいたま医療センターでの研修を希望して来た若手医師を相手に、『内科知識の豊富な外科医こそ(!) 総合臨床医のホープだ』との持論で総合医学講座Ⅱ:外科医局に強く勧誘していたのだが、ある総合医学講座Ⅰ:内科の教授には『強引に過ぎる』とのお小言を頂いてしまった。

あの頃胆石症に対する治療法としての胆嚢摘出術に革新的な手技が欧米より伝えられた。腹腔鏡を駆使しての開腹しない手術として話題となり、外科医の多くは驚愕とともに違和感も覚えたと思う。
日本で初めてこの手術手技を実践したのは誰か?などが話題になったが、我が母校の消化器内科医局は『腹腔鏡的胆嚢摘出術;通称ラパタン』として大々的にこの手技の伝道師たらんとしていた。
山形大学や鹿児島大学でも内科医局が先陣を切って発展に尽くしていた。
さいたま医療センターでも消化器内科医が手術を行い、外科医はトラブルがあった時に即座に開腹手術に移行出来るようにと手術室外に待機を求められていたことが懐かしい。
その後当然のこととして全国の外科医達による巻き返しがあり、手技の対象疾患も広がり現在の『内視鏡外科手術手技認定医達による鏡視下手術の隆盛』に至っている。
技術革新のスタート時点からこれに携われたことは幸運だった。
総胆管切開切石術・脾臓摘出術・副腎摘出術・十二指腸潰瘍穿孔閉鎖術・胃部分切除・胃内粘膜切除術・肝部分切除術・肝嚢胞天蓋開窓術等の手術術式の工夫に参画し、先陣を切って邁進出来たことにはさまざまな思い出とともに大いに満足している。

初期の頃に総合医学講座Ⅱ:外科医局に参集してきた若手医師(自治医大卒業生は半分程度だった)には肝・胆・膵領域外科の研鑽を積んできた者は皆無であった。
手術症例のある時には何時も栃木の本院に専門医(前自治医科大学附属病院長の安田先生)の派遣をお願いしその指導を仰いでいた。
全国的にも肝臓切除術が一般的になりつつあった頃だった。
大宮に越してきて既に5年が経過していたが家族への約束も忘れたふりをして、『消化器外科特に肝胆膵領域』を選択専攻し、その高難度手術手技の獲得に研鑽を積む機会を得た。経験不足は他病院の先達から学び取ろうとして、<HBPS;埼玉若手肝胆膵外科医の会>と称した勉強会を立ち上げた。
幸いにも好評で年2回20年に亘って主宰し継続開催する事が出来て、現JCHO埼玉メディカルセンターの細田先生・唐橋先生、さいたま市立病院の山藤先生・竹島先生、埼玉癌センターの坂本先生・網倉先生、さいたま日赤の木村先生・中川先生・吉留先生、防衛医大の初瀬先生・山本先生・青笹先生、独協医大越谷病院の山口先生・名取先生、みずほ台病院の井坂先生、帝京大学の佐野先生、都立駒込病院の本田先生等々の同年代の若手外科医と誼を築くことが出来て、人生の貴重な財産となっている。

さて、勤務医として最年長に達し遂に故郷徳島に帰らないままに過ぎた今、『自分は何をしてきたか?』と纏めてみたい思いに浸ることがある。
なすべき使命には日々の臨床を誠実に積み重ねていく他に、医局長の5年間を含めて実質8年間医局運営の責務を任されていた。
この間に関連医師会の先生方との付き合いを経験し、多くの知己を得て今に至っている。またこの時期には未だヒエラルキーなど確立していない小集団の外科医局の中で、それでも組織論として{やるべきこと&やってはいけないこと}を必然的に体得することになった経験はその後大いに役立っている。
これにはさいたま医療センター事務局長福沢さんの指揮下にまとまっていた事務部門の
仕事ぶりを見聞きしていたことが随分と勉強になった。
特に人事案件では迷い・悩みそして怨まれるなど(人生経験としては貴重なものと云えるかもしれないが…)中間管理職としての苦しみも随分と味わった。
他には後輩の指導・教育もあった。
自分の持てる力に不足を意識しながらも、会得してきた知識や技術を伝え残したいという人としての本能もあり、「ああしよう(ああしろ)!こうしよう(こうしろ)!」と随分と口うるさい親方(というより兄貴分でしかなかったのだが)となっていたことだろう。
今から思えば汗顔の至りである。

一方、第2代教授の小西先生の指示で平成15年頃から10年程の間、外保連(一般社団法人外科系学会社会保険委員会連合;わが国の外科系診療における適正な診療報酬はどのようにあるべきかを学術的に検討することを主な目的として、1967年に外科系の9つの主要学会が集まって作られた団体)の内視鏡外科部門の委員として活動した。
一時腹腔鏡下虫垂切除術の保険点数が削られたことがあり、これの是正を求めて厚生労働省に対して手術実績統計や意見書等数々の面倒な書類作成による復活折衝に取り組んだこともあった。
ストレスも多く、自分には向いていない作業だなぁと痛感した。
また、5年ほど前のことだったと思うが外科手術点数全般のアップが成立したとき、外保連委員長であった埼玉県立小児医療センター院長の岩中先生からこれを外科医の環境整備(手術件数当たりのインセンティブなど)に反映させてほしいとの要請があった。
この時には北区赤羽の東京北医療センターに転籍していたのだが、病院長として外科医だけの待遇改善を画策するにはいまひとつ躊躇するところがあり、結局は単に病院の収益アップにしか繋げられなかった。
一方外科医代表の一人としては申し訳なかったとの思いも残っている。

最近、『医師こそ働き方改革を』といった議論が盛んになっている。
特にまだ減少傾向が続いている外科医にとっては大きな問題であり、『医師の質の向上を最重要視して構築』されるという2018年度からスタートする【新しい専門医制度】とともに関心度は一層上がっている。
医師の労働環境を考えるときに、使命感?か、労働者としての保護か?ということが議論テーマになってしまう。
故武見太郎医師会長は『医師は労働者ではない』と言い切っていたというが、現状ではどちらを主とするのか等の結論は付けられない難しい問題だ。
40年前に受けた大学教育では、『医師の仕事は使命感に基づき、一般の労働者とは異なる奉仕の精神云々』と聞かされた世代の一人である。
結婚式の仲人をお願いした徳島大学第2外科の井上教授からは、「ここで新婦に一言伝えておきたい。新郎はこれから外科医として研鑽を積み成長しなければならない。病院に長く居残ればそれだけ緊急手術などの術者の権利を得て経験を積み早く一人前の外科医に成ることができる。夜、早くは家に帰らないことを覚悟しておきなさい。」という訓示があったのが懐かしい。
一方、20年前には指導を頂いていた自治医大前病院長の安田先生から『留学先のデンマークには外科医は週40時間以上働いてはいけないという法律があった』と教えていただいた。
当時はびっくりするような情報だった。
『緊張を伴い長時間の集中力を必要とする手術は疲労度が高く、これを安全にこなしていくために十分な休息は必須だ』との考えだ。
10年前には『レジデント教育には使命感という言葉を使用すべからず』とのお達しもあった。
今後も臨床医の労働環境整備の議論が続けられるであろうが、医師という職種キャリアアップの為の自己研鑽の時間をどう捉えるかなど専門医制度も関わってくるだろうし、医師の需給問題や医師法の応招義務、医師という資格の業務独占等々越えなければならないハードルは高そうだ。

結局のところこれらの問題に関しては殆んど役に立たなかった時代遅れの自分であり、内心忸怩たる思いを抱いている今日この頃だ。
働き方改革が話題となり、早晩ITを活用した診療の変容が訪れるだろう

と、わが半生を小括してみたものの、この期に及んで大きな変化があった。
定年退職後に嘱託契約で、地域小病院付属の健診センター長を担っていた。
健診センター長の職が、楽だとか隠居仕事のようなものだとは思わなかったが、
それまでの臨床外科医として感じていたビリビリする緊張感は無かった。
ところがこの度は縁有って、所謂医療モールの管理者(責任者:院長)に推挙されて、
思わず眩しい表舞台に引っ張りだされたような面映ゆさを感じている。
働き方改革では、心身ともに健康が維持できるなら75歳までは生産性を上げる労働者と
して期待される様だから、身を引き締めて新しい仕事に取り組んでいこうと決心した。

青春    サムエル・ウルマン

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ           年を重ねただけで人は老いない  理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる

心がけ次第でいつまでも青春を謳歌できる、
つまり世のために役立てるわけだ!