カニ族彷徨記

“カニ族”彷徨記  1

1971年に栃木県那須出身である高野悦子の遺書ともいうべき『二十歳の原点』というタイトルの本が出版され、話題となった。その時私は大学生になったばかりで、しかも栃木の、それも県の畜産試験場(牛の放牧場)跡に建設された大学キャンパスと、全員が入るべき学生寮での生活が始まっていた。新設大学であり歴史がないだけに縛りを感じることも少なく、いろいろと試行錯誤あるいは冒険のできる環境とも云えた。すでに実習が始まっていて忙しい日々ではあったが、“大学生なんだから本はいろんなジャンルのものをどんどん読まなければ”という強迫観念的思いが募り、それまでの読書量の少なさに負い目も感じていた当時、ベストセラーは取りあえず何でも読んでいた。『二十歳の原点』は当時の成人の日であった1月15日に著者の書いた、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という言葉が心を捉えて、多くの学生に読まれた。そして『二十歳になったら“一人”で旅に出よう!』というキャッチフレーズが生まれ、学生の北海道一人旅がブームとなった。感受性豊か(?)で素直な、あるいは単純で影響されやすいとも表現できる私は、二十歳の誕生日は一人で迎えようと1973年の夏、休みに入ると直ぐにリックを背負って一人初めての北海道へ旅立った。本当はこの旅で成長した自分を見せたい人がいたのだった。その頃背中の横左右にはみ出る大きなリュックサックを背負って北海道を旅する若者を“カニ族”と言った。今ならデイパックを背負うのだろうから、カニ族とは呼べない(?)だろう(ミノムシ族?)。その後10年ほどはオートバイで北海道を旅する若者にブームは移った。“ハチ族”とその呼び名も変わった。説明するまでもないのだがブンブンというオートバイのエンジン音からきている“ハチ族”だ。その後は更に贅沢にも車で北海道を旅するのが大学生の文化となったようだが、贅沢に過ぎるとのやっかみもあってか、彼らに“愛称”は生まれなかった(付けるなら“ハコ族”or虫の名前なら“カブトムシ族”か?)。
1973年7月18日水曜日(夏休みに入っていた)に“ドライブイン倉井”でのアルバイト(皿洗いではなくて、ご子息中学生の家庭教師)を午前中に終え(こなし)て、宇都宮から東北本線の急行に乗った。そして夜、寝袋の入ったでっかいリュックを背負って仙台駅に降りた。翌日の朝青森までの特急に乗るための途中下車だった。乗車券は宇都宮からの往復北海道周遊切符だった。仙台の夜はこれといった予定は立てていなかった。駅前の立ち食いソバ屋で夕食として“キツネそば”を食べた。大学は栃木県にあったが、それまでは四国徳島で育った私だ。つまり、徳島でなら、こんな時は当然“タヌキうどん”を選択したに違いないシチュエーションだった。夜は仙台駅の構内で寝る予定だった。東北新幹線が未だ開通していない(開通するのは11年後の1982年6月)その頃は、構内野宿が黙認される時代だった。最終電車が到着し、駅が静かになるまでの時間つぶしを考えた。やはり映画鑑賞が手っ取り早い。案内書で映画館を探した。繁華街にあった映画館はすぐに見つかった。映画館には『ポセイドンアドベンチャー』が掛かっていた。前年に見て気に入った映画『フレンチ・コネクション』で、やたらと走りまくる刑事役で主役だったジーン・ハックマンが、この映画でも主役だった。今度は牧師だったが、【神は一人ひとりの面倒を見ている暇はない。人間は自ら努力して苦しみを解決しなければならない;つまりGod helps those who help themselves 天は自ら助くる者を助く】との信念を持っていた。これは聖書には無い言葉であり、キリスト教の教えとは異なる独自の思想の牧師という役柄だ。「神は弱きものは救わない」と遠回しに弁舌している為に教会から左遷され、アフリカに向かう為ポセイドン号で移動しているという設定だった。彼はこの思想ならではの励ましで、老婦人に勇気を与えて果敢な行動を促し、自らは犠牲となるが、転覆した豪華客船から何人かを救出する場面は感動的で、今でもよく覚えている。映画で満足な気持ちとなり、駅構内に帰る途中「ワンカップ大関」で喉を潤し一層の幸福感を得た。仙台駅構内には既に何人かが場所をとって寝ていた。必ずしも若者だけではなかったが気にもならず、2本目の「ワンカップ」でぐっすりと眠れた。
翌日は仙台から急行に乗り、盛岡を通り過ごして青森まで行った。青森で乗り継ぎ時間が迫っていたので青函連絡船に飛び乗った(従って25年程経てから学会で青森を訪ねたが、何も覚えていなかった)。函館では港近くのユースホステルに宿泊した。翌朝は前もって調べておいた朝市でイカソーメンを食べた。トラピスチヌ修道院を訪ねて、友人への土産とするつもりで有名なクッキーを買ったが早計だった。旅の途中で食費を浮かせるために結局はみんな食べてしまった。人はこういう経験から学習するものなのだ(ろうか?)。函館からは函館本線に乗った。最初に下車しようと決めていたのは長万部(おしゃまんべ)だった。長万部駅で列車を降りて、街道を歩いていくと、藁筵掛けの小屋で蒸した毛蟹を売っていた。1匹500円だった。「お兄ちゃんはどこから来たの?」本当は栃木だったが、徳島と言ってもまるっきりの嘘ではないと咄嗟に考えた。「徳島から毛蟹を食べるためにここまで来ました」おばさんはいい人だった。「遠いところから大変だったねぇ! それにしても美味しそうに、残さずきれいに食べるもんだねぇ~」。子供のころから食べっぷりがいいと褒められ、嫌いなものがなく何でもぺろりと食べる特技がここでも活きた。「もう一つ食べていくかい?」私は「はい 喜んで」と勿論おもいっきりの笑顔を添えて答えた。カニ族が本領発揮したと思っていいのだろうか?

“カニ族”彷徨記  2

長万部で”カニ族“の正体を披瀝(思わず暴露?)した後は再び函館本線に乗り込んだ。それまでの列車の旅は右手に内浦湾の海辺を眺めながら走っていたが、ここで大きく左に折れて我が乗る列車は山の中を走行し始めた。7月下旬の山あいはまだまだ緑豊かで、窓を開けて走る列車にはまさしく薫風が流れ込んできて心地よかった。札幌まで特に予定を決めていなかった旅だったが、乗車後2時間ほど経過した時に、やや間の伸びた車掌さんのアナウンスを聞いて急遽降りることにした。【ニセコ駅】だった。大学生活でスキー文化に初めて出会ったのだが、その経験は当時まだ猪苗代スキー場に連れて行かれた1回だけだった。ただ誰かから『北海道の雪はアスピリンスノーと云って本州の雪とは質が違う。特にニセコスキー場の雪はすごくいいらしいぞ!』と聞かされていた記憶がふと蘇り下車したのだ。勿論夏だから下車する観光客は殆んどいなく、木造の駅舎は閑散としていた。板張りの壁には少し剥げかかった案内板がスキー場行きのバスの発着時間を示していた。次の列車までには2時間程あったかと思う。少し歩いてみようと考え、駅舎を出た。左に曲がって線路を越えて北に向かうとニセコアンヌプリが聳えるニセコスキー場方面なのだが、右手からリュックを背負った数人のハイカー達がまとまって歩いてきた。『この辺りを観光するならどこがいいですか?』と聞いてみると、『羊蹄山のハイキングが最高だよ!』と教えてくれた。ただ彼らの服装から推察すると、十分な計画を練っての夏山登山のベテランに見受けられた。大学入学時に”ワンダーフォーゲル“という言葉を初めて耳にした程度の田舎者で、ハイキングの趣味はなかった私はこの瞬間少し腰が引けてしまった。教えに従って取り敢えず羊蹄山のふもとまでは独り歩いて行ったものの”意気地なし“との悔しさを抱きながら”トボトボ“と引き換えしてきた。すれ違うこれから登ろうとする人々には、『羊蹄山のハイキング』を一人で遣り遂げた末に疲れ切って帰途に着いてるワンゲル部員に見えただろう、きっと…。
その日は予定変更しニセコで宿を探してユースホステル“まつかり”に辿り着いた。ユースホステル会員証は、猪苗代スキー場に行ったときにゲレンデのユースホステルに宿泊するために取得していたのが役立った。宿泊のメンバーには、女学生3人のグループと男子学生5人のグループが居た。生来内気で当時無口だった(今でもかなり!?)私は、“一人旅”に(“二十歳の原点”に)拘っていたこともあり皆に馴染むこともなく、なんと女学生に話しかける勇気も出ずに、夕食後のフォークソング合唱も聞くだけにして、早々と部屋に帰って2段ベッドの下に潜り込んだ。洗いざらしたシーツの冷ややかな感じが今でも蘇ってくるような気がする。翌朝食事もそこそこに一人済ませた。なんだか“一人旅とは孤独でなければならない”とでも決めていたかのように誰よりも早くユースホステルを出て函館本線の列車に乗り込んだ。
小樽は通過しただけだった。初めて覚えた歌謡曲で、小学校3年生の時に町内会の寄り合いで集まった子供を連れたオバサンたちの前で歌い、その場に居た母親から「小学生が唄う歌じゃない!恥ずかしいからやめて!」の声を振り切り最後まで節をきかせて得意気に謡ったのが“錆びたナイフ”だった。『♬~ 砂山の砂を指で掘ぉってたら~ 真っ赤に錆びたジャックナイフが出てきたよ~♫ 』 それを唄って自信(?)を持った私は、石原裕次郎の歌は殆ど覚えて口遊んでいた。ただ、小樽に『石原裕次郎記念館』が出来たのは平成になってからであり、「カニ族彷徨旅行」の頃は、裕次郎が子供の頃ここに住んでいたという知識もなく、小樽にそれほどの思い入れはなかったのだろう。
小樽を過ぎては“銭函”や“星置”など魅力的な駅名に目を留めながら、夕暮れ時になって札幌に到着した。駅弁を買わずに(ニセコ駅には売っていなかった為)列車に乗っていたので空腹だった。札幌駅南口に出て札幌ラーメン横丁に入り、その頃全国的に有名になりつつあった札幌味噌ラーメンとチャーハン(多分?!)を食べた。ラーメンと云えば、母校大学近くの“レストラン倉井”でも醤油味であり、故郷徳島のラーメンも醤油味(どちらかと云うとすき焼き味)だったので、ラーメンは醤油味と決まっていると思い込んでいたのだが、味噌味は新鮮で美味しかった。今宵の寝床は札幌駅構内でと考えていたのだが、駅案内所を訪ねて確かめると、札幌駅では駅構内での宿泊が禁じられていた。仕方なく最も安い(学生でも宿泊叶う)“ねぐら”を紹介してもらった。修学旅行の高校生がよく泊まるというその古い旅館は、札幌駅の北側にあり時期的にも幸いに空いていた。その夜の腹ごしらえは、又してもラーメンと明日への意欲のために『サッポロビール生』ジョッキ3杯と“ねぐら”への土産に『ワンカップ大関』2本を追加した。
翌日は札幌観光だった。先ずは定番の北海道大学構内散策に向かった。郷里徳島の高校同級生に確か遥々北大に進学した変わり者が居たが訪ねることもなく、今ではその名前も思い出せない。クラーク博士の胸像はすぐ見つかった。“Boys be ambitious”はもっとも有名な外国人のセリフで世間知らずに育った私でも小学校で覚えた。ポプラ並木も歩いてみた。
それから駅の南口に戻った。旧北海道庁の赤レンガが、思いっきり“北海道に来たんだなぁ~気分”を演出してくれた。札幌駅南口前に“五番館”という洒落た名前のデパートが在ったのを覚えている。
1953年に『或る「小倉日記」伝』でデビューした松本清張の最初の本格的推理小説『点と線』は既に読んでいた。小説の中では当時札幌市内随一(根拠に乏しいが)の旅館として登場するのが、札幌時計台西隣りの旅館『丸惣』だ。確かここに宿泊しただろう犯人の確証を求めて、刑事が捜査に来たのだったかな? そんな場面を思い出したので、是非とも観ておきたいと探したが、その時には立派なビルディングの“ホテル丸惣”となっていた。2階にあった“ホテル丸惣”フロント窓際のソファーに座ると、時計台が良く見えたことを覚えている。 “恋の町札幌”「♬~時計台の下で逢って、私の恋は、はじまりましたぁ~♪」はきっと唄っただろうだと思っていたが、今調べてみると残念ながらその後に発表されたヒット歌謡曲だったので、“ホテル丸惣”フロント窓際では歌ってはいないことが判明した。残念だ!

“カニ族”彷徨記 3

昭和48(1973)年7月下旬の今は思い出せないある日、札幌駅から再び函館本線に乗って終点の旭川に向かった。勿論鈍行列車だったから5時間以上は要しただろう。“北海道周遊券”と云ったかなぁ~ 便利な切符だった。誰とも話さなかった二十歳の貴重な思い出となった5時間の列車行だった。誰に話しかけられるでもなく、ただただ黙っていた。“無言の行”を気取っていたかもしれない。結構印象深く残っている周囲状況と時間だ。

到着した旭川駅周辺は、予想とは違って静かだった。山に囲まれ市内を川が流れる地方都市の顔をしていたように思う。故郷徳島と似た雰囲気だった。ただ海が遠いところは違ったが。旭川ラーメン“山頭火”などは未だブームになっていなかった。旭山動物園もあったか(調べてみると1964年;東京オリンピックの年に開園)どうか? 話題になったのは改修工事(2000年頃)が終わってからかな。今から思うと全く動物園は意識外(尤も二十歳の生意気盛りには動物園に行く希望はなかったのは仕方がないかな?!) の施設だったのだろう。この時より5~6年前(私が中学生の頃)に、父親が職場の研修(と称する観光)旅行で“旭川のアイヌ集落”を訪れたことがあり、木彫りの子熊を土産に買ってきてくれた嬉しい記憶が残っていた。それで真っ先に駅前バス乗り場から30分ほどの乗車でアイヌ集落(川村カ子トアイヌ記念館)を訪れた。入り口(トーテムポール様)門を入ると直ぐに土産物売り場に入った。“ピリカ”(美しいことを意味するアイヌ語)と彫られた木彫りの少女の横顔がキュート(昔はこんな言葉は使わなかったかな?)なペンダントを、それもいろいろ探して最も可愛く彫られているものを選んで確かに買った。帰ったら真っ先に渡そうと決めていた人がいたからだ。これを買ったら、後はそれほど印象に残っていない。しかしアルバムを捲ると、アイヌの民族衣装を纏った姿が写真に残っていた。

この旅には、オリンパスOM-1というカメラを持って行った。今でも新発売されたころのテレビマーシャルを覚えている。“兄貴が買ったOM-1を弟が羨ましがる”というシチュエーションだった。大学生にはちょっと高かったが、家庭教師のアルバイトで稼いだ貯金をはたいて買った。出たばかりの小型一眼レフカメラは最高にかっこよく、その後10年間は友であり、新婚旅行にも携えたくらいだ。使わなくなって30年以上経つが、今もどこか押入れの隅に転がっているはずだ。

旭川からは石北本線の列車に乗って網走に行った。当然網走刑務所を見学した。【網走番外地】、【新網走番外地】の大ヒット映画は当時の若者として当然の如く映画館で堪能していた。高倉健のファンでもあった。今でも主題歌“網走番外地”はそらで唄える。しかし歌詞も唄そのものも石原裕次郎の方が一層好きだった。ここではペナント(細長い三角形の旗で、観光地を図柄で描いてある)を買った。当時の観光地土産の定番だった。

次いで網走からバスに乗り原生花園に行った。今では以前のような観光スポットになっていないようだが、当時は結構有名で、“網走に行ったら原生花園へ”と云うのが“カニ族”の定番コースだった。ここでは当然裕次郎(になり切った私)が登場し、
『 ♫~ 夕陽の丘の ふもと行く~ バスの車掌~の 襟ぼくろ 別れた人に 生き写し~ なごりが辛い 旅のお∼そおら~ ♬ 』と口遊むバス行程だった。尤も周りの観光客を慮って小声でそっと唄ったはずだが…。

原生花園から先の記憶がない。そのまま引き返して帰って来たのだろうか?何故か思い出せない。10日間の“カニ族彷徨の旅”には稚内や根室半島までは予定に入っていなかった。
彷徨の旅だから、“足の向くまま気の向くまま”とか、壁に地図を貼って“♬ 行方はピン投げて~決めるのさ~ ♬”などと、目当てを考えずに行き当たりばったりの旅でもよかったのだろうが、几帳面な(気が弱くて小心者)の私は、おおよその行程を決めて旅に出たような気がする。

携えた当時のベストセラー、多くの学生に読まれた『二十歳の原点』には【独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である】という言葉があった。これが若者の心を捉えて、『二十歳になったら“一人”で旅に出よう!』というキャッチフレーズが生まれ、学生の北海道一人旅がブームとなり、早速その流行に乗った私だった。
感受性豊か(?)で素直な、あるいは単純で影響されやすいとも表現できる私は、二十歳の誕生日を一人で迎えようと1973年の夏、休みに入ると直ぐにリックを背負って一人初めての北海道へ旅立った。つまり能動的に【独りであること、未熟であること】を体験したかったのだ。

その収穫は? 生まれて初めて一人で旅した(故郷と大学の往復路は別として)。家族或いは友人と離れた10日間を、敢えて孤独を求めて過ごしたことで得たのは何だろう?
殆んど人と話をしなかった10日間だった。【独りであること、未熟であること】をこの時、真に理解していたのだろうか?

夏休み初めの“カニ族彷徨の旅“を終え、取り敢えず栃木の大学学生寮に肉体的・精神的に健康で帰還した後、急いで荷物を纏め直して故郷の徳島に帰った。ペンダントを渡すべき人は、春に2泊3日の京都旅行を共にした高校卒業時同じクラスの、勿論女生徒だった。そばかすのある右横顔と少し上向きの尖った鼻が“ピリカ”に似て可愛かったことを実は今でも思い出すことができる。帰省後直ぐに連絡を取って会うことにしたのだが、なんだか予想していなかった風が吹いていた。いろいろなことがあって、結局は“ピリカ”を手渡しすることに至らず、その人は去っていった。

【独りであること、未熟であること】を痛烈に受動的実体験し、そして実感して残りの夏休みを耐えた。
“ピリカのペンダント”は、暫くは机の引き出しの中に在ったはずだが、いつしか失くしてしまったようだ。
“過剰な想いを込めたものを他人に押し付けてはいけない! 過剰は罪 なんだ! ”と
学んだのはずっと後になってのことだった。

【原生花園からの記憶がない】ことの考察
さて突然45年後の現在、つい今しがたのことに関して記銘できていないことに気付く回数が増えてきた。還暦を過ぎて到達した記憶力低下の現実だ。一方、過去に関しての記憶は比較的保たれていて想起できるものだという。なら昔のことだから覚えているはずなのだが…。

そうか! 今思い当たった。強烈な衝撃(ラグビーの試合中に倒されて脳震盪を起こしそれまでの試合中の記憶を失った経験がある)的失恋により“逆行性健忘現象”が発生したに違いない。