ジビエのルイベ

平成元年9月に郷里徳島で地域医療の現場として働いていた町立病院の外科医長(と云っても医師10年目の若手外科医で、他には内科院長との二人体制)から、当時の大宮市に新設された母校自治医科大学の第2附属病院【大宮(現さいたま)医療センター】の外科講座の助手として上京(?)してきた。
開院式を同年12月に迎えたのだが、出来上がったばかりの新しい大きな病院で働くことはワクワクするほどの魅力にあふれた毎日だった。

当時の同僚に麻酔科の小野寺先生がいた。
同僚と云っても5歳ほど年長の温厚な麻酔科医の先生だった。
北海道帯広の浦幌町出身で、町の奨学金を頂いて信州大学を卒業した後に創立したばかりの自治医科大学麻酔科に奉職し、第2附属病院【大宮(現さいたま)医療センター】の新設時に教員の募集に応じて講師として移動してきた変わり者だと、大きくて優しそうな
眼をクリクリさせながら自己紹介された覚えがある。
ある時(30年近く昔だったかな?)、小野寺先生から声を掛けられた。
『住永君、実は頼みがあるんだけど。当然聞いてくれるよね!(えっ? その内容にもよりますけど…) 奨学金を出してもらった恩義のある浦幌町からまた診療支援の依頼が
あったんだよ。今までは自分が何とか年休を取って行っていたのだが、今回に日程期間中は学会開催日と重なっているし、浦幌の病院では外科手術の業務もあるらしい。
麻酔科の私が、緊急手術などの時にも文句も言わず外科医を助けてきたことは、よぉ~く
解っているよね!』
当然ではあるが『はい、喜んで!』との返答以外の選択肢はなかった。
もっとも、行ったことのない北海道の街は、それだけで私には魅力であったことも事実だ。
6月頃だったように思うが、無理やり早めの夏休み休暇と年休をとって、支援要請に応じた。
昼頃には帯広空港に着いて、予めキーを渡されていた(小野寺先生が広い空港の駐車場のどこかに駐車しておいたと申し送られた)車をやっと見つけて浦幌町を目指した。
勿論ナビなどの無い頃だった。
ダッシュボードには懐かしの道路地図帳があり、帯広までの45分の行程が赤鉛筆でなぞってあった。
途中にはその頃既に有名になっていた池田町のワイン城があった。
これを目印に右に曲がり南下すると浦幌町に到着、すぐに町立病院事務室に訪いを入れた。
その日午後には仕事はなく、事務長さんと院長先生が夕餉を共にしてくれた。
海に近い浦幌の街中には、新鮮な魚介類と提供する小料理屋が数件並んでいた。
そのうちの一つに予約をして頂いていたが、到着した時にはテーブルに御馳走がふんだんに盛られていた。カニが豊富で毛蟹・花咲蟹、タラバガニも勿論並んでいた。
時期的には名産のサンマは無かったが、浜から上がったばかりの新鮮なホヤの味は格別
だったし、大きな夏牡蠣にも驚いた覚えがある。
お酒はきっと北海道の銘酒“北の勝”の冷酒が出てきたのだと思うが、今思い出せないのが残念だ!
翌日の外科外来診療支援と、午後の胆嚢摘出手術(その病院の院長先生は麻酔の出来る内科医で、普段の外科手術は札幌医大からの派遣外科医が実施していたが、何らかの事情で派遣が無くしかも手術は延期できない事情があった)を、無事実施出来たので、夜はフリーとなった。
街灯の明かりに誘われて夜の浦幌の街を彷徨い、昨夜に行った小料理屋を目指して歩いたが、実際には隣の飲み屋に入った。
どうせならいろんな夜(変な意味ではなく、いろんな雰囲気を体験したかったと理解してほしい)を味わいたかった訳だ。
カウンター席で“ホッケのひらき”の塩焼きを肴に、一人ビールを飲んでいると、“見慣れない顔の〈若者!〉が淋しそうに思えた“のか、隣のおじさんが話しかけてきた。
『兄ちゃんはどこから来たのかな!(残念ながらその訛りは表現出来ない)』
これが“兄ちゃん”ではなく、“おっさん”“おっちゃん”とか“社長”と声掛けられたのではきっと会話は弾まなかっただろうに!
⇒『東京から来ました(本当は大宮だけど、どこに在るか知らないだろうと気を利かせた)』
『営業かなんかの仕事で、遥々浦幌まで?』
資格を担保に支援に来たわけだから、営業と云えないこともなかった(?)が
⇒『町立病院に人手がないとのことで、3日間の応援に来ました。北海道はこれまでも来たことはありますが、帯広地方は初めてです』
『それはわざわざご苦労ですねぇ~ まあ一つ飲みなさい』と云って、店主にお猪口を
一個要望してくれて、自分の飲んでいた銘酒“北の勝”のぬる燗を私に注いでくれた。
初夏にぬる燗を飲む人は、相当の酒飲みだということを私は知っていた。
そのおじさんは『自分はマタギを仕事にしている』と自己紹介してくれた。
『マタギってわかるかい?』
⇒『文字としては知っているし、意味も解ります。でも実物のマタギさんに遭遇(?)
するのは、生まれて初めてです。たいへんな仕事なんでしょう?』
『年中山の中に入っているよ。イノシシやシカやキジを仕留めては、この店にも納めているんだ』と胸を張った。
そしてこの店には品書きに”ジビエ“として、イノシシ鍋・鹿肉ルイベ・鴨肉の焼き鳥などが掲げてあった。
そこで“鹿肉のルイベ”を肴として追加注文した。
私は学生時代に“カニ族”として一人で北海道を彷徨った時に、札幌の炉端焼きで
“鮭のルイベ”を食したことがあって美味しかった思い出がある。
以後、冷凍した肉を薄くスライスして“刺身”として食べる“ルイベ”は気に入っていた。
口に含むと、次第に凍っていた肉が解けてきて、本来持つ肉の甘さが増すようでとても
上品で良い料理法で美味しいと思っていた。
1時間も酒を酌み交わしているとすっかり二人は仲良くなっていた。
これが私の得意技でもある。
親の年代なら年齢差の敷居を意識するのだが、おじさん(年齢差15歳程度)なら、緊張はしない。
『兄ちゃんは“鹿の肉”欲しいか?』
図々しくも、暖かい申し出は断らない主義(断れない性質)の私は
⇒『ありがとうございます』と酔いに任せて返事をしてしまった。

その年の初秋だったと思う。
職場から帰宅すると、家内が『何か重たいものが入っている段ボールが冷凍の宅急便として届いているよ。何なの?』
40㎝立法の段ボール箱の重い荷(20Kgはあったように覚えている)で、送り主は町立浦幌病院事務長さんだった。
添付の手紙には『マタギの何某さんから私に届けてほしいと依頼された』とあった。
開けてみると冷凍した鹿の肉がぎっしりと詰められていた。
狩猟で得た鹿1頭分の、どこだか知らないけれども“ルイベ”として美味しいところの
肉塊なんだろう!
焦った。
こんな量を確保して置ける冷凍庫は、我が家にはない。
我が家に限らず、一般の家庭にはないだろう。
分けて仲間に配ろうか?
でも冷凍の肉の塊をどうやって切り分けるのか?  どうしよう?
その時、うまい具合に閃いたことがあった。 “窮すれば通ず”だ。
大宮の“南銀”と称する歓楽街に【日本料理の田中】という小料理屋があった。
気安く利用できるコストパフォーマンスの高いお店なので、医局の会合などで何度か
行ったことがあった。
小料理屋に電話を掛けて“大量の冷凍鹿の肉”の保存をお願いしたところ、心安く引き受けてくれた。
『うちの冷凍庫なら大丈夫だから、それくらいなら預かってあげますよ!』
⇒『感謝感激です!』
⇒『仲間に知らせて【日本料理の田中】をどんどん利用するように宣伝しておきます。
せめてもの恩返しです。その際には“ルイベ”として無料でサービスしてやってくださいませ!』
勿論小野寺先生を筆頭に、仲間にこの旨伝えると、珍しい食べ物に魅せられてか『今度是非【日本料理の田中】に行ってみるよ』と反応良好であった。
なかには『結構美味しいものだね。“シカ肉のルイベ”というやつは!! また行ってみたくなった』との声も聞こえてきた。
1か月後だったか時間が出来たので、外科医の後輩と二人で【日本料理の田中】に行った。
私と同年代の【日本料理の田中】の女将さんが、ニコニコとして云った。
『たくさんのお客さんを導いてくれてありがとうございました。でも、先生! 間に合ってよかったですね。 鹿肉ルイベはあと500gくらいしか残っていませんよ』
⇒『えっ そんなに食べられた(食べてくれた)の!』
貴重な残りを滑り込みセーフで間にあって、二人でたいらげて満足を得た。

このことが縁で、【日本料理の田中☞ソニックシティ北隣に移転し新規開店して、今は日本料理の“かしや”】をその後も贔屓にしていて、足掛け30年の常客として扱われている。
時には“営業部長”として遇してくれている。
いろんな仲間との定期懇親会を私が企画しているから…?
冬には“鮟鱇鍋”夏には“鯛ずくし”秋には”マツタケ“などを安く提供してくれるので、
企画する懇親会は平均月1回の頻度にもなったことがある。

本来“和食料理”との看板を掲げているが、5年ほど前から特にお願いして
“住永の裏メニュー;つまり品書きには載せていなくて、住永だけが予約して注文できる
〈秋田短角牛の肩ロース赤肉の500gステーキ〉“を創って頂いている。
なぜか?
ステーキに関しては、還暦を過ぎて我が眠れるイートファイター魂に火がついてしまった。それは母校の元病院長の長谷川嗣夫名誉教授が嘗ての呼吸器内科鬼軍曹の石原照夫先生と小生を、茗荷谷のステーキハウス“イノウエ”(小山のステーキハウス武蔵野の兄弟店)に連れてってくださったことが切っ掛けだ。
しばらくは(40年近くに亘って)ステーキを重さで食べていなかった小生に対して、マスターは『何グラム食べますか?』と聞いてきた。
イメージが湧かなかったが、一番大きいということで『250gお願いします』と答えた。
赤みのロースで美味しかった。
『お客さん早いですね! もっと召し上がりますか?』と聞かれて、『なら150g追加してください』と云ってしまった。
が、これもペロッと食べてしまった。『お客さん、よく食べましたね! でももう無理でしょう?』と煽られてしまった。
ここで40年前の実力のあった頃の感覚が蘇ってしまった。
『それではあと200g追加でお願いします』
どうもこれが、茗荷谷のステーキハウス“イノウエ”の記録(還暦過ぎた食客として?)となっているらしい。
この日以来、ステーキに対してやたらに意欲が湧いてきた。
肉はロースやヒレではなくて赤みの部分で、厚くなければ闘志が湧かない。
転籍したこともあり茗荷谷は少し遠い。
それで『ステーキの宮』『ステーキのどん』『ステーキハウス ブロンコビリー』『いきなりステーキ』など、うまいステーキを求めて転戦したがどうも求めるものに辿り着かない。
それで30年来の馴染みの日本料理『かしや』に相談した。
しっかり者で若いころはさぞかしもてたであろう女将と気風のいい板長さんが快く申し出を受けてくれ、試しに肉を取り寄せて焼いてみてくれた。
そして銘柄5番目にやっと満足のいく肉に到達した。
『秋田の短角牛の肩赤み肉;1ブロック7㎝程の厚さで550g』だ。
レアに近いミディアムレアで噛みしめるように肉を食んでいるとライオンになった気分だ。美味い! ここまでに至ってあることに気が付いた。
赤みの厚い肉はスパッと切れるナイフの方がきっと一層美味いだろうことに。
通常のノコギリ様のステーキナイフでは肉の細胞が壊れているのではないか?
ネットで調べてみると、刀鍛冶の流れを汲む工場が作っている“藤次郎”というステーキナイフを見つけた(実はこれに行きつくまでに2本ほどダメ出しをしている)。
“藤次郎”は7㎝の厚いステーキをスパッと切ってくれる。これで肉のうまさが一層増したように思う。
そして“藤次郎”をマイステーキナイフとしてお店に預けている。
このステーキを一緒に食する会を“ライオンの会”と称している。
メンバーは現在の所45名になった。実は結局のところ“藤次郎”を7本に増やしている。それで“ライオンの会”は一度には6人しか誘えない(もちろん私は毎回メンバーだ)。
つまり同じメンバーとはなかなか会えない(年に1~2回?)。
私が頑張って月2~3回企画してもこの盛況だ。

それでも今のところ続いているのは
ジビエ“鹿肉ルイベ”に出会った幸運な胃袋のおかげかな?