厚岸紀行

『厚岸』という地名を初めて認識したのはいつの頃だっただろうか?
入試に地理を選択しなかった(関係無い?)こともあってか、大学生になっても暫くは道東(この言葉も社会人になって知った)と云えば釧路・根室など常識的な地名しか頭になかった。
二十歳の時に、でっかいリュックを背負った“カニ族”として、北海道一人旅に出たことがあった。
青森から青函連絡船八甲田丸で初めての北海道に渡った。
函館・長万部・ニセコ・小樽・札幌・旭川・網走等を旅したが、この時は“一人で旅をする”ことが主題であり、北海道に関して大した知識も持たっていなかった。
今でこそ広大な平野を感じさせ、北海道一番の魅力と確信している道東には結局廻らずに旅は終わった。

学生時代に小児科助教授だった個性的な風貌の五十嵐正紘先生にはいろいろなことでご指導ご教授を頂いたのだが、先生が厚岸町立病院の第23代病院長として赴任し活躍されたのは1981年からの10年間だった。
私は1979年に大学を卒業していたので、先生はその2年後に厚岸に赴任されたのだが、母校の恩師の動向は直ぐに耳に入ってきた。
自治医科大学ではへき地医療を教えるが、“教員がへき地医療の実践経験皆無なのは如何なものか?”という【問題提起】だったと聞いている。
つまり1981年に初めて『厚岸』の地名に出会ったわけだ。

私は1989年に故郷徳島を離れ、埼玉県大宮市(現さいたま市)に転居してきた。
そして新設の【自治医科大学付属大宮(現さいたま)医療センター】の教員となった。
2年ほどして、同僚の麻酔科医師が浦幌出身であった関係で浦幌町立病院からの支援要請があり、一週間ほど浦幌に滞在した。
外科支援が終了した時にちょうど夏休みをとって、家族を帯広空港に呼び寄せてレンタカーで道東~道北を旅した。
【愛国から幸福行】という切符が一大ブームとなり、テーマパークのはしりでありドイツ文化を紹介する“グリュック王国”が年間70万人の観光客を迎えていた最盛期の頃だった。
この時は、浦幌から太平洋を右に見ながら、釧路に向かった。
釧路港ではオープン程ない“釧路フィッシャーマンズワーフ“で食事したことを覚えている。

そして、ここで進路を大きく左に切って、阿寒湖⇒摩周湖を訪ね、屈斜路湖で湖水浴を行い、川湯温泉に宿泊した。
網走に出てお定まりの刑務所を観光して、原生花園に足を延ばした。
オシンコシンの滝を過ぎて、斜里町から知床峠を越え、羅臼に至った。
羅臼では子供を連れて公衆浴場に浸かったのだが『おじちゃん なんで背中に絵が描いてあるの?』と倶利伽羅紋々の御仁に向かって問いかけた次男(4歳)の言葉に慌てたことを今ふと思い出した。
後で知ったが昆布取りの漁師さんにはその頃彫り物が流行っていたそうだ。
羅臼からは根室まで走行し、納沙布岬を見学し、下って”車石“まで到達した。
ここで花咲蟹を初めて知ってお土産にしたのだが、持って帰って職場に配ると、味は毛蟹のほうに軍配が上がってちょっとガッカリした。
ここより浦幌までの帰りは厚岸を通過したはずだが、車中では“ムツゴロウ動物王国”
(ムツゴロウこと畑正憲が創設した動物と触れ合うための施設)が家族の話題の主となり、ついに厚岸には立ち寄ることなく、浦幌まで帰ってしまった。

2010年頃、公益社団法人地域医療振興協会の東京北医療センターに勤務していたのだが、この時、道東の“別海町立病院”を支援することになった。
小児科と外科がメインだった。
外科の支援は週4日だったが午後半日フリーの日があり、この時に病院の車を借りることが出来たので、毎回のように道東のドライブを楽しんだ。
18年前に家族と一緒に訪れたときには『二度と訪れる機会はないだろう』と感慨深く眺めを記憶に収めた納沙布岬も、この機会に何度も訪れた。
あの時(真夏だった)も別海からいつものコースで厚床までドライブした。

ここでハンドルを左に切って“回転寿司花まる”で軽く腹ごしらえして納沙布岬でカモメに挨拶する予定だったが、ふと右に舵を取った。
厚岸病院の佐々木暢彦病院長を表敬訪問することを思いついたのだ。
東京北医療センターから消化器内科が支援していた縁で大学1年後輩の佐々木先生には何度か東京北医療センターの病院長室を訪ねていただいたことがあった。
この時に知ったのだが、佐々木院長は大変な読書家で、それも私が一時期のめりこんでいた海外ミステリー小説の大家だった。
その後会うたびに『この題名の小説はとっても面白いから』と、お互い【これぞお勧め!】の小説を紹介し合っていた仲間だ。

ところで、厚岸は別海から遠い印象を持っていたので、それまでは半日のドライブで訪れようとのアイデアは浮かばなかったのだが、暑さでぼーっとした頭だからこそ、突然“いい案だ!”と思ったのだろう。
ナビの付属していない車だったが、道路標識に案内されながら“霧多布岬”も見学し随分と遠回りで厚岸病院に辿り着いた。
夏だったので、短パンとTシャツ姿で受付に案内を乞うと、名刺も持っていなかったこともあり当然の如く“胡散臭い中年オヤジ”と見做されたようで、直ぐには院長に会えず(外来中だった?)、受付嬢からの訴え(?)で事務長の土肥さんが出てきた。
土肥さんには東京北医療センターの病院長室で一度お会いしたことがあり、やっと私の身分が証明された。
佐々木先生にも挨拶ができ、帰りは勧められた“道の駅:コンキリエ”でちょっと早い夕食(久しぶりの海鮮丼)を摂った。
もちろん美味かった!

その1~2年後に厚岸町から外科医の支援要請があった。
別海町への支援が終了していたこともあり、東京北医療センターからの外科医派遣が始まった。
業務の都合や受け持ち患者さんの状態により派遣に応じられる人員の選別に苦労することもあったが、そんなときは主として私が(別海の時もそうだった。恣意的と思われることも随分あったようだが…)支援要員となった。
釧路空港から厚岸への迎えの車の車窓から“昆布森”という地名を見つけたときは、そのあまりにも率直な命名に思わず微笑んだのだが、厚岸辺りの昆布は食用だけでなく、ヨードの原料として欧米に輸出されていたことを後に知った。
ヨードと云えば、中学校で感動したヨウ素デンプン反応実験であり、散々お世話になったポピドンヨード消毒液であり、イソジンうがい薬だ。
手元にある“厚岸歴史物語:『明日はいつも、海からやってきた』”には、明治24年に国泰寺近くのバラサン岬に建てられた製造所で、日本で初めてのヨード製造に成功したとあった。
また、明治40年代には厚岸湾がニシンの豊漁で湧いたそうだ。
嘗て道東一の賑わいの港町だったことをこの書物で知り、感慨深かった。

さて、しばしば町内では一番美味しいとされている小料理屋“東京炉ばた”でご馳走になり楽しい宴の数々の思い出があります。
最大のものは、銘酒【北の勝】を飲みながら『 如月の 夜に集いて 交わす盃 熱き心で 語る夢あり 』と即興の三十一文字の詩を詠んだところ、後日女将さんが揮毫してくれて尚且つ立派な額に入れて送ってくださった。
ありがたいことです!
今も病院の玄関にその額を掲げている。

さて、“東京炉ばた”では女性を伴っていた立派な紳士に遭遇したことがあった。
同席していた土肥さんから我らが敬愛する『厚岸の若狹靖町長』さんと紹介された。
この時町長さんから「東京には厚岸の牡蠣を食べさせる店があるからぜひ行ってください」と教えて頂いた。
日本橋とコレド室町に繁盛している2店舗があり、同窓会に利用する予定を立てている。ところで町長さんの同伴者は妙齢の綺麗な婦人だったので遭遇(目撃)してよかったのだろうかと案じたが、後で町長夫人であると教えられほっとした思い出がある。

厚岸病院の電子カルテはそれまで使っていたのと同じシステムだったこともあり、外来診療業務は看護師さんを始め職員さんのテキパキとした対応のおかげでとてもやり易かった。二日目の夜は当直を担っていた。
早朝目を覚ましカーテンを開けると、厚岸湖の対岸の峯から朝日の出を拝むことがあった。特に冬の晴れた朝は、湖面を曙色に染めているのが美しかった。
厚岸では朝早く(真冬以外)散歩に出て、あちこちを見て回った。
写真撮影を趣味にしているので厚岸大橋の袂から厚岸湾の写真を撮ったり、強い風に運ばれてくる海の香りを楽しんだりした。
ある時は厚岸漁協直売店まで案内して頂き、いろいろと土産を買い漁ったついでに評判高いという“オイスターブラック(牡蠣の煮汁を練り込んだビール)”を飲んでみた。
予想と少し違ったその不思議な香りと苦みが気に入って好みの1本に加えた。

2年程で東京北医療センターから外科医派遣は終了した。
支援こそ地域医療振興のシンボル的業務と捉えていたので、残念( “オイスターブラック”が飲めなくなったことだけではない?! )に思っていた。
さてその頃或る時ふとインターネットの画面に、『厚岸牡蠣に新たなブランド立ち上げ』の記事が目に入った。
既に名産品として知れ渡っている“カキえもん”に続く有名ブランド確立の企画だった。命名募集の1等賞は「厚岸への招待だったか10万円だったか?」忘れたが、結構本気になって考えた。
牡蠣はオイスターだ。
厚岸の新しい牡蠣ブランドは厚岸の名前を全国に広めることも含まれているのだろう。
厚岸の新しいスターの誕生だ!つまり“アッケスター”とした。
【厚岸町】の名も全国に拡がるだろうと…。
自信満々だった。
賞金は厚岸への旅費にするつもりだった。
後は厚岸への日程をいつにしようかということだけだったのだが…。
ついに1等賞の連絡は届くことが無かった。

その後再び縁あって初秋に5日間の支援を担うことがあった。
到着の夜は駅前のホテル五味を利用することになっていた。
遅い夕食時ここの若い支配人と話をしていると、暫く東京で働いていたという。
そして酒の知識が豊富で特にウィスキーの造詣が深い人だった。
同夜数人の西洋人の宿泊者がいたので、支配人に聞いてみるとスコットランド人の職人だと云う。
スコットランドと気候・土壌が似ている厚岸に新しくウィスキー醸造所を作るために来たそうだ。
”厚岸ウィスキー“はスコットランドのポットスチルで醸し出され、熟成樽用のミズナラも手に入れての期待の大きいシングルモルトウィスキーとなるだろう。
樽買いと云うのがあるそうだが、一樽300万円らしい。
これには手を出せないが、売り出されたら直ぐにボトル数本は手に入れたい。
尤も愛飲するアイラ島のラガヴーリンは16年物であり、25年物は宝物として大事に保管している。

私に ”厚岸ウィスキー“の25年物を飲む時間は残されているだろうか?